Iceberg in the Arctic with its underside exposed
写真: AWeith / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

北極海の海底で、メタンなどが湧き出す「冷湧水域」に暮らし、水素を生み出す細菌の採取が進んでいます。研究チームは細菌の遺伝子や酵素を調べ、水素燃料の製造に応用できるか探っています。気候変動で北極の環境が変わるなか、生態系の記録と研究も続けています。

冷湧水域で水素を生む細菌を採取

冷湧水域は、海底の割れ目からメタンなどの流体やガスが出る場所です。太陽光が届かない深海でも、微生物は化学反応からエネルギーを得る「化学合成」によって生きています。今回の研究対象は、メタンを利用し、代謝の過程で水素を自然に生み出す細菌です。

フィンランドのオウル大学で分子生態学を研究するフアン・ガラルサ氏のチームは、2024年にスバールバル諸島北方の海域を調査しました。海底のデータが限られるなか、約20年前の海洋観測データや断層の位置を手がかりに、冷湧水域を探しました。

海底スキャナーに映る気泡は、冷湧水域を見つける手がかりになります。ただし、クジラの群れや別の化学物質が気泡のように見えることもあるため、研究チームは複数の機器で確認しました。調査の最終日に条件の合う場所を見つけ、その後、活動中の冷湧水域4カ所から堆積物を採取しました。

遺伝子の仕組みを燃料製造へ応用

チームは採取した細菌の遺伝子を調べ、水素が生み出される仕組みを明らかにしようとしています。ガラルサ氏は、水素を作る酵素を大腸菌など別の細菌に組み込む可能性を挙げています。大腸菌は実験室で大量に培養される細菌で、対象の深海細菌とは異なり、生存にメタンを必要としません。

大腸菌の培養に産業廃棄物を利用できれば、製紙工場などから出る廃棄物を活用して水素を生産する構想につながります。ガラルサ氏は、藻類を使う方法より水素の収量が高くなる可能性にも言及しています。これらは研究チームが検討する応用案で、実用化された燃料製造方法ではありません。

水素は燃焼時に水を生じる燃料ですが、燃料として使うには水などを構成する分子から水素を取り出す必要があります。この分離には多くのエネルギーと費用がかかります。化石燃料由来の電力を使えば、製造工程の脱炭素化にもつながりません。深海細菌の酵素を応用する研究は、水素を生み出す方法を探る取り組みの一つです。

電化しにくい分野で期待される水素

水素は、航空や船舶、高温熱を使う産業など、電化だけでは脱炭素化が難しい分野で燃料としての利用が期待されています。水素は素材製造にも使われ、水素還元製鉄や基礎化学品の製造が利用例に挙げられています。

国際エネルギー機関(IEA)の2022年報告によると、船舶で水素やその派生燃料を使う100件超の実証・試験プロジェクトが進行中でした。この数字は当時のプロジェクト数で、広範な商用利用の開始を意味するものではありません。航空や海運での燃料利用も研究対象の一つです。

水素の製造方法には、水を電気分解する方法、製造工程で生じる副生ガスを精製する方法、バイオガスや都市ガスなどを改質する方法があります。再生可能エネルギー由来の電力で水を電気分解すれば、製造時に二酸化炭素を排出しません。一方、電解装置の大型化やコスト低減が課題です。

研究を急がせる北極の環境変化

研究チームが調査する北極海は、氷や嵐によって航行が妨げられる厳しい環境です。船のチャーター費用は1日あたり約2万ドル(約320万円)に上り、調査費用を分担するため、研究チームは地質学者や海洋学者らと船を共同利用しました。船内の寝床が足りず、隊員がスバールバル諸島の無人島で野営したこともあります。

調査中は海底スキャナーを24時間監視し、4時間交代で気泡を探しました。海氷や嵐で調査を中断したほか、急な悪天候でキャンプ地に機材を残して避難し、別の調査隊が回収したこともあります。採取した細菌は、生物学的な封じ込め措置を講じて扱われています。

スバールバル諸島の氷河は面積の約60%を覆いますが、気候変動で急速に縮小しています。海洋保護団体オーシャン・コンサーバンシーの北極科学研究責任者ヘンリー・ハンティントン氏は、変化の方向を予測する難しさを指摘しました。ガラルサ氏のチームは、細菌の水素生産の仕組みを調べながら、変わりつつある深海生態系の記録を続けています。