Heritage as Urban Anchor: Beimen and the Redesign of Taipei's Gateway District - More Images
出典: images.adsttc.com

台北の北門は、清代の城門建築を残す歴史的建造物です。周辺の高架道路が撤去され、広場が拡張されました。

清代の城門として担った役割

北門は承恩門とも呼ばれ、清代の台北城へ入る官員が通る門でした。城門には接官亭が設けられ、防御を意識した砲台式の構造が採用されていました。

台北城には五つの城門がありました。日本統治期に西門は撤去され、東門・南門・小南門は華北宮殿風に改変されました。北門は閩南様式を保ち、現存する城門の中で建設当初の姿を伝えています。

日本統治期には城壁や接官亭、甕城が取り除かれました。想想Thinking Taiwanの許又方氏は、縦貫線鉄道の建設に伴って城壁が撤去されたことや、後年の高架道路計画をめぐり文化関係者が保存を求めた経緯を記しています。

高架道路の撤去と交通の組み替え

忠孝橋の高架引道は、鉄道の地下化前、線路が忠孝西路を横切る地点の交通渋滞を解消するために設けられました。台北市政府は、鉄道地下化後に当初の役割が薄れたことや、公共交通網の整備を踏まえて撤去を計画しました。

台北市政府は北門周辺の車の流れを見直し、七方向に分岐していた交差点を単純な十字路に改めました。2016年2月には高架引道を6日間で撤去し、北門を囲む広場の面積は約2,300平方メートルから約6,800平方メートルへ拡大しました。

撤去計画では、交通動線の変更とあわせて開放空間を設け、北門の歴史的景観を見せることが掲げられました。台北市政府は広場を2015年から2018年にかけて整備する計画を立て、北門と台北郵局の間に活動広場を設ける案などを示していました。

地面の高さと広場に刻まれた歴史

広場の設計では北門の主構造を傷めないよう、作業員が手作業で地面を掘り下げ、清代の地面の高さを再現しました。北門には台北城門の中で唯一、清代の門扉が残っていますが、開閉はできません。

広場には、かつて城壁が北門につながっていた位置を示す部分が残されています。城壁の撤去、日本統治期に整備された三線路、大稻埕の茶産業に関係する素馨花も、広場の景観に取り入れられました。

市政府の整備計画には、北門西側の城壁の一部を再現する案や、護城河を表す緑地と水路の設置が含まれていました。水路は雨水の排水や敷地の保水にも使う構想で、広い緑地は道路との緩衝帯や雨水花園として位置づけられていました。

地下鉄駅にも残る遺構

北門駅の設計対象となった一帯には、旧台湾鉄道本部の敷地と車両基地があり、当時は歴史博物館・公園への再整備が進められていました。MAA Groupは、周辺の歴史的背景を踏まえて駅の出入口や換気塔を設計しました。

出入口には、かつての産業施設を思わせる構造フレームや、周囲の景観に溶け込むガラスの小規模建築が用いられました。出入口の周囲には換気設備に加え、バス停、自転車置き場、一時的な休憩場所、小規模な緑地も設けられています。

駅の地下空間は中立的な灰色を基調とし、工事中に発掘された遺物を垂直のレリーフやガラス床で見せる設計です。遺物の展示や土地の歴史を示す年表は、駅の公共空間に配置されています。

広場から旧市街の景観へ

台北市長は広場の完成時、北門を中心に鉄道博物館、台北郵局、三井倉庫などの歴史的建築をつなぐ構想を説明しました。北門広場は市政府が掲げる「西区門戸計画」の中心に位置づけられています。

高架道路の撤去後に周辺一帯を計画的に再編した事例として、邱秉瑜氏はサンフランシスコのMarket & Octavia地区を取り上げています。同地区では、1989年の地震で損傷した高架道路の一部が撤去され、跡地は2005年に地上の並木道として整備されました。

サンフランシスコ市は2007年に地域計画を承認し、住宅、公共交通、歩行者や自転車の移動、街路の公共空間などを組み合わせる方針を定めました。